高校生の化粧のしかたはけっして上手でない。
おおよそが目に重点がおかれる
化粧法はその近辺の眉毛におよび、
その輪郭をおおう髪の毛におよぶ。
目の周辺に黒でひとまわり隈取りをいれるため、
やけに目だけが目立ち、少女漫画の主人公みたいな
バランスの悪いシロモノができあがるのだ。
本来、化粧というものは、
足のつま先から脳のてっぺんまでのトータルバランスで
すべきものなのに、顔にだけ集中する化粧法は
人間らしさ、ひいては、個人的主張をいっさい
否定するものとなっているのだ。だから、
とくに女子高生の化粧はだれもがおんなじになって、
化粧をすればするほど、じぶんがじぶんでなくなって、
まるでショーウインドウの既製品と化してゆくのである。
だいたい、風呂の長いのは女の仕事で、
とりたてて風呂でなにをしているのか
妻にも娘にも訊いたことがないからじつの
ところはわからないのだが、
やはり、すね毛を剃ったり、
腕の毛を剃ったり、眉毛を抜いたりと、
いわゆるむだ毛の処理に時間がかかっているのだろう。
じっさい、このむだ毛ということばもわたしには
気にかかる一語なのだが、
はたして「むだ」とはなんなのだろうか。
それは社会に対してでも、仕事に対してでも、
倫理意識に対してでも、文明に対してでもない、
じぶんのためにむだなのである。
化粧するじぶんの姿にむだなのである。
ということは、前述したとおりじぶんを捨てるために化粧をし、
そのうえ、じぶんにむだなものを削除するという
面があったというすこぶる興味ぶかい
精神構造を化粧という行為は有しているのである。
「虫めづる姫君」という中古の小説があるが、
この姫は生活信条が自然体なので、
だから、眉毛は剃らず、そのまま生やしっぱなしになっている。
蝶々がかわいいなら羽化する前の毛虫もかわいいはずだと、
毛虫を箱で飼うしまつである。
ま、ここまでになれとはいわないまでも、
自然にさからわずに生活することがむしろ
不自然であることの裏返しの小説であったのだ。
化粧というのは、こういった「じぶんに与えられた自然」への
否定であり、矯正である。
とくに、欧米人は(絶対的自我構造を持っているという点から)
そこまででくい止められた精神構造であったのであるが、
日本人はここに、農耕民族のアイデンティティが加味されるから、
「みんなといっしょ」という意識が添付される。
ひとりひとりが、化粧することによってじぶんの
価値観を捨てながら水田に植わっている
一粒の米つぶのように目立たなくなろうとしているのだ。
美しく目立たなくする、これが化粧の真髄なのだろう。
ここまでかんがえれば、きれいになること、
イコール化粧ではない、ということが明白になったはずである。
だからといってわたしが化粧を否定しているわけではないのだ。
パッケージはよりきれいなほうがいいにきまっている。
だが、そこには文明社会に生きる人間と肉体だけは
文明に順応できていない人間が、
共存しているという悲しい事情があることを
認知しなくてはならないし、
この不可思議な二項対立を背負いながら
葛藤しているけなげな生き物が人類のやく
半数を占めているということに
あらためてわたしは気づくのであった。
ともかく、高度文明を作り上げた人間は、
人間の肉体だけがその文明に追いつかず、
むだ毛の処理や化粧という方法で
じぶんを壊しているといってもよいのである。
化粧は破壊である。