買い物は楽しい。
流通経済社会の上層階級の一員とし、
財布のなかにごっそり札束が入っていて、
あるいは、銀行に七桁くらいの
ゼロのある預金があり金色のカードで
好きなだけ物が買えたら幸せこのうえない。
けれども、貧窮問答歌のわれわれ庶民だって、
ウィンドウを見ているだけでも楽しめる。
ところで、買い物の楽しさとはいかなるものなのか、
すこし考察してみよう。
たとえばデパートの一階ハザードにでかける。
ここには世界のブランド品がずらり肩を並べているので、
日本人のDNAがだまっておられず、
人びとは猫じゃらしで遊ばれる猫みたいに、
グッチ、エルメス、エトロ、サルバトーレ・フェラガモ、
シャネル、ヴィトン、ア・テストーニ、ブルガリ、
ティファニー、カルティエ、
こんなもので顎の下を撫でられて、
すっかり気持ちよくなっているのである。
そのもうひとつ階下にゆくと、
そこは食料品の洪水である。いわゆるデパ地下、
日本国内の物産品や輸入品が所狭しと
陳列されている。ま、どこのスーパーに
ゆくのでもおんなじだが、
そこにゆくまではなにを作ったらいいかまったく
白紙の状態で、ただ夕飯をつくらなくては
ならないという義務感だけが働き買い物を
はじめるのがごくふつうの主婦の思考なのだとおもう。
そこできょうの献立を考えはじめるのである。
食料品街は、もちろんお目当ての食品を
探しにゆく場所でもあるけれども、
それよりもじぶんの気づかなかった、
知らなかった食品と出会え、
それを使って夕飯を作るとか、
晩酌のおつまみにするとか、
あらたな情報を提供してくれる新鮮な
刺激の場所となっているのだ。
とうぜん触手の動くものが主婦の
かごにおさめられるのだが、
ここでなによりも見逃せない消費者の幸福論は、
欲しい物を手にいれることよりも
じぶんが何を欲していたかに気づくことなのである。
つまり、じぶんの潜在的に欲していた物に出会えること、
じぶんの潜在意識が意識の表層に
浮かび上がる状況をひとは喜びという感覚に交換する。
簡単に言えば、そうだ、わたしはこれが欲しかったんだ、
こういうじぶん発見の旅が買い物にはあるということだ。
痒(かゆ)いところに手の届いた幸せ、
いや、どこが痒かったのかわかった幸せ、
胸のつかえが取れる、溜飲の下がるおもいがするのである。
この幸福感は、食料品だけにかぎらず、
すべての売り物、売り場に共通である。
雑貨店でも、洋品店でも、宝飾品でも、
文房具店でも、書店でもじぶん発見を
どこかでしているのである。
これはじぶんの嗜好のベクトルを商品に照射し、
商品から消費者にも照射されつづけ、
おたがいのベクトルが一致したばあいに
購入という行為が成立するという交互のベクトルの存在を
証明するものである。交互のベクトルとは、
換言すれば「対話」である。つまり、われわれは、
買い物という行為で対話をしているのであり、
その対話によって、知らない世界を知ることもできるし、
知らないじぶんを知ることもできるのである。
そして買い物の急所は、
この対話形式が公共の場で行われるという事情である。
とくにさいきんの閉塞的な社会において、
公共の場の存在価値をもっと未来的に
見直さなくてはならないとわたしはおもっているのだが、
この公共の場での個人的な、パーソナルな対話が可能なのは、
じつは買い物にあったのである。
パブリックな場所でパーソナルなじぶんの
時間と空間、対話できる時間と空間を
獲得できるのは買い物をしているときのみに
許されているといっても過言ではない。
それだからこそ、買い物をしているときに
ひとはくつろぎや安らぎを覚えるのである。
それは公共の場での個人の解放といってもいい。
ということは、個人の解放は、
交互ベクトルの対話にあるのなら、
たとえば、教育の場でも、
交互ベクトルさえあればじゅうぶん、
個人の解放やくつろぎ・安らぎを得られる場となるのである。
不登校が増えている現状、じつは不登校者の増加は、
買い物に見られた心的状況を学校で
獲得できていないがための結果ではないだろうか。
もしそうであるなら、
学校が生徒のためにじぶん発見の旅を
させてあげるなんらかの手段を講ずればよい。
これこそが学校教育の急務である。