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マサイの戦士

これも今は昔のはなしである。

 

 このあいだはじめて「マサイの戦士」という

いかめしい名前の飲み物を飲んだ。

乳酸飲料と表示があって、

ヤクルトジョワをひとまわり大きくしたようなスタイルである。

それがスーパーの陳列棚のいちばんうえに、

これまた偉そうに置かれていた。

値段が二百円。いま、五百ミリリットルの麦茶とか

ウーロン茶とか緑茶とか、紙パックにはいっているのだと

九八円で買えるこの時代に、二百円である。

高い。高いものだと上質のものだ、

とわれわれはおもいこんでしまう、

つまり銀座の和光のような感覚である。

和光なら良質なものがあるとおもいがちになる。

わたしも、鎮座している場所と値段設定とイラストながら、

夕陽にむかって槍を持って屹立しているマサイ族の勇者が

パッケージに刷り込まれているこのあたらしい

飲み物にがぜん触手が動き、

つい新鮮な衝動ともに買い物かごに入れたのである。

 いま、ゆえあってわたしの日常の食事事情は

ひとさまにはとうてい言えないような、

よくいえば質素なものなのであるが、

その日も、焼き鳥三本と豆腐とこのマサイの戦士で

夕飯をすまそうとしていた。

ま、ゆえあってと言っても、たいした理由ではない。

去年までにあらゆる筋肉を体脂肪に変換することに

成功したわたしなのだが、そんな冗談もいえないほど、

体は弛緩しきって、地べたにおちたボールペンを

拾うのにも「よっ」とか声を出していたのだから、

これはまずい、とじぶんでもよーくわかっていたところ、

ひさしぶりにサッカーの岩本輝男が学校に来てわたしを見た瞬間、

「お、先生太ったなあ」と言いやがった。

あんまりひとのことばを気にしないわたしなのだが、

なんだかテルに言われたのがわたしのこころの

スイッチをオンにさせたのだ。

「でもそんなに食べてないんだけどなあ、そばとかよく食べているし」

「だめだよ、おっちゃん。そばとか太るんだよ」

元日本代表はわたしのことを「おっちゃん」と呼ぶ。

「じゃ、なにがいいんだよ」

「タンパク質だな」

そーか、タンパク質か、よし、テルに言われたんだから、

ここはひとまず体脂肪を筋肉に変換するように努力しよう、

と一念発起、決意を新たにしたのであった。

それから、ほとんど炭水化物と油物を抜いた食生活がはじまった。

その日から、わたしの主食はもやしと鶏のささみになったのである。

ところがこれで慣れてしまうと、これがじつに調子がいい。

おまけに部活動の顧問までひきうけるはめになってしまい、

食生活と運動の両立で、テルに会った日の体重よりいまでは、

およそ十キロちかく減ったのであった。

 

 わたしは、とある場所で、豆腐を食べながら、

焼き鳥をほおばっていた。豆腐によく醤油とか、

ネギとか、ショウガとか、鰹節をまぜて食するひともいるが、

わたしはそのままがいい。豆腐のあのあまい香りがたまらない。

大豆のあまさだ。醤油やその他の薬味を入れてしまうと、

大豆のあまさがふっとんでしまう。

精米したての新米は塩をふって食べるとすこぶる美味だけれど、

その炊きたての新米に永谷園のお茶漬けのもとをまぶしたら、

なんか趣がないだろう。それとおんなじくらい、

豆腐はそのままのほうがいい。で、わたしは食後に、

いよいよマサイの戦士を飲んだのである。

ストローがついているのでぐさりとフィルムの

上に突き刺し喉を通した。

ん。乳酸飲料と表示があったからわたしは

すこし酸味のある、ヨーグルトのようなものを想像していたのだが、

まったく違う。なんだこれは。わたしの喉を通ったものは、

どろりとしたバリウムのようなものだった。

そして味は豆腐を粉砕してジュースにしたようなものなのだ。

ようするに豆腐ジュースなのである。

わたしは、いま、豆腐を一丁まるごと食べたばかりである。

こんどは、豆腐を水にしたものを飲むのである。

よくいえば豆腐づくしだ。で、わるくいえば、まずい。

ひどくまずい。ま、さいしょはまずくても、

そのうち慣れてくることもままある。

たとえば、はじめて食べたジローの冷えたピザ、

臭くて人間の食べ物とはおもえなかった。

いまから三十五年くらい前のことである。

まだ、ピザというものじたい日本人が食したことのない時代であった。

それから、はじめて食べたカロリーメイト、

なんだよ、ぼそぼそして変にチーズ臭くて、

やっぱり人間の食べ物とはおもえなかった。

が、ピザにしろカロリーメイトにしろ、いまでは万人が

好んで食べている。だから、マサイの戦士もいずれ、

万人がごくごく飲む時代がくるのかもしれない。

そうおもいながら、もったいないから、

この部族の飲み物を飲み干して、

わたしはその容器を使ってコーヒーを口直しに入れた。

マサイの戦士はマサイのコーヒーと化したのだが、

まだ戦士の臭いが残っている中にコーヒーを入れたものだから、

戦士とコーヒーの香りがまざって、

なんともいえない悪臭がその部屋中に立ちこめてしまったのだ。

う、なんだ、この臭いは。まわりには数名のひとたちがいたのだが、

みんな、まわりを見回している。いままでに経験のない臭いなので、

防衛本能が動いていないといったようすだ。

臭いね、とわたしが言うと、まわりの人たちも、

怪訝そうな顔で、ええ、なんですかね、

この臭い、とか言っている。これじゃない。

わたしは、マサイのコーヒーを彼の鼻先にもってゆくと、

う、これですよ。これ。うー、臭い。と顔を背けてしまった。

でも、この臭いはなにかに似ているのである。

それもちょっとノスタルジックな臭い。はっ。

わたしは気づいた。この畳の腐ったような臭いは

おばあさんの臭い、老人臭にそっくりなのだ。

だから、おばあさんに会いたくなったら、

マサイの戦士にコーヒーを混ぜれば、

ほぼ完璧におばあさんが復元できるのである。

 

 家に体脂肪計を購入した。

すこしは痩せた成果を数字で見たかったからだ。

いまの計りは、体脂肪とともに内蔵についた脂肪まで計測してくれる。

と、なんと、体脂肪も内臓脂肪もひどく高いところまで

ゲージがふれてしまった。

わたしはひどくがっかりして、

いまも、もやしを主食にしている。