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プールサイド人間

 

豪傑、という語句も死語となっている。

だいたい豪傑とはどんなひとだったのか。

歴史上では、弁慶とか、蜂須賀小六とか、

西郷隆盛とか、そのへんか。

ま、西郷隆盛は月照上人とのうわさが

まだ消えやらないから、やはり男色系は

豪傑のリストからはずしたくなる。

その点、義経のガードマンは、

弁慶の泣き所、なんていうアイロニカルな名詞までこさえて、

かつ、弁慶の立ち往生、はあまりにも有名で、

豪傑と呼ぶのにふさわしい。

蜂須賀小六もしらべれば数多くのエピソードが

あるんだろうが、

なぜかわれわれにはその伝説は

つたわっていないような気がする。

やはり、出身が泥棒というところがネックになっているのかもしれない。

 あんまり知られていないが、

西行という人物も豪傑だったらしい。

だいたい北面の武士あがり、

いまでいう自衛隊の経験者だから、

からだはできあがっていたにちがいないし、

記録によれば、蹴鞠の達人だったという。

蹴鞠は、片足で蹴り続け、

そのタマをけっして地面に落としてはならないという

サッカーとバレーボールを混ぜ合わせたような遊技だから、

ひどく体力がいる。それをみても西行法師の体格、

体力は推して知るべしなのである。

その西行は坊主のくせに修行もしないで

和歌ばかり詠んでいる、けしからん、と当時、

荒法師として名高い文覚という坊主が、

西行の実家に、よくいえば談判、

わるくいえば殴り込みに出かけていったのだが、

部屋に通されるや西行から手厚い接待を受け、

なにひとつ意見も言えずにほろ酔いで

もどってきた、なんていう挿話があるほどである。

 

 豪傑さは、人体でたとえれば大動脈である。

とくに現代は文化が細分化され、

大動脈よりも赤血球ひとつがとおるくらいの

毛細血管に注意がそそがれている。

枝葉末節というやつだ。高度文明の功罪は、

美点として精度の緻密さ、欠点として

倫理意識といったような体系的な大前提の

論議の欠如があげられるだろう。

 身近なはなしでは、

すこし前の高校生にはそれなりに

豪快なやつがいた。学校規範に則ることができずに、

我が道をゆく、独立独歩のやつがいた。

ワルだが堂々としているのだ。

見かけは校則違反のかたまりである。

が、こいつらは、じぶんの世界を築いていたため、

つまり、じぶんのなかで体系的なじぶんを

構築させていたのであり、

その体系的なじぶんは、

学校規範と対峙する恰好となり、

結果的に校則違反というカタチで表出していたのだ。

そういうやつは、ワルだが見所がある、

と、世の教員たちも、マイナスな感情ながら「一目を置いていた」のである。

 おれは、修学旅行を高校時代の目的にしている、

修学旅行さえ行ければあとはなんにも望まない、

と豪語していたやつは、二年生の秋、

修学旅行から帰ってきた翌日退学した。

 さすがに、いま、こんな野郎はいない。

いまどきの高校生は、第一ボタンをはずしたり、

靴のかかとをつぶしたり、教科書をいれてこない鞄で通学したり、

と校則違反はするものの、その違反のしかたが

すべてセーフティーゾーンなのである。

絶対にタッチされない距離のリードしかしないのだ。

むかしなら、ピッチャーがよそ見しているすきに

二塁に走るやつがいたかもしれないのに。

 水泳の時間、自由時間が楽しみだった。

好きに泳いだり、潜りっこをしてみたり、

そんなとき、べつに泳ぐのが嫌いなのじゃないけれど、

自由時間になるとプールサイドを駆け回っている元気者がいた。

みんなの中で泳ぐのがいやだったのだろう。

が、さいきんの子どもは、プールの真ん中で泳ぎ遊ぶこともできず、

プールサイドを駆け回ることもできず、

ただ、プールサイドに腰掛けて、

足だけ水につけてぱしゃぱしゃ動かしている子が

増えたような気がする。

みんなとはいっしょにはなりたくないけれど、

プールからも出られない、

つまりは、社会のルールの輪郭に

しがみついている子どもたちが増えているのである。

これは子どもにかぎらない、

社会からはみだした豪傑にもなれず、

社会にとけ込めもしない、

言うなればプールサイド人間がいっぱいいるのだ。