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 今年は異常なまでの冷夏と

多雨で農作物に甚大な被害が出たが、

夏がこなかったことは生物界にもおおいに

影響があったのではないか。

 だいいち、蝉の声を聞かなかったような気がするが、

これは気のせいか。いつもなら、

あのけたたましいシャワーのようなミンミン蝉の

鳴き声からはじまり、つくつくぼうしのちょっと

哀愁のこもった響きを聞きながら初秋を感じたものだったが、

ことしのヒグラシはどうしてしまったのだろう。

 蝉という昆虫は、わたしは門外漢だからそんなに

くわしく知らないけれど、七、八年は地中にいて、

長い幼虫の期間を終えて、のそのそ地面から這いだし成虫になり

蝉の一生はそこからは短く、

一週間くらいで死んでしまう、そんなサイクルだったのではないか。

 成虫になってからなにゆえ極端に短命なのか、

といえば、補食する口が装備されていないからだ。

もともと、長生きを目的に蝉が蝉として生まれたのなら、

もっとちゃんとした口をくっつけているはずなのだ。

たとえば、カマキリや蟻のように、

なんでもがりがりかみ砕くつよい顎が不可欠だ。

が、いずれの種類の蝉をみても、

口のかわりについているものはか

細いストローのような管、これだけである。

つまり、さいしょっから長生きを目的に

生まれてきてはいない、ということなのである。

生まれながらにして、

点滴だけで生きている爺さんみたいなもので、

すぐ死ぬに決まっている。ニンゲンで言えば、

酸素ボンベ無しで海中三十メートルまで

素潜りして魚をつかまえにゆくような無謀さなのだ。

ビニール袋に空気を渡され、

そのまま宇宙に抛り出されるような無謀さなのだ。

じゃ、なぜ、そんな無謀さを自然界は強いらせたのか、

といえば、ひとえに、繁殖、この行動のためだけなのである。

蝉は、いままでのノミのばけもののような恰好から、

いっきに蝉とよばれるカタチに、

つまりは羽をつけ、管を装填し、おおいなる変身を遂げ、

大空を飛び回り、雄は大音声あげて雌をさがすのである。

なにしろ、蝉と成った瞬間から死のカウントダウンが

はじまっているのであり、死へのプロローグがはじまったわけで、

それはとりもなおさず、

死ぬことが蝉として生まれた目的になっているという

アイロニーなのだ。

それだからこそ、いざ、幹にしがみついたときから、

あんな悲痛な悲鳴となるのだ。

「ここにいるよ、だれか探してくれ」

 遠くから嫁さんが来てくれた方が、

近親相姦にならなく種の保存には都合がいいせいか、

ともかく大音量である。蝉にとってはほとんど本能で

動いているのだろうから、

痛くも痒くもなく無意識で鳴き続けているんだろうが、

たまには真理に近づいている蝉なんかいて、

鳴きながら、こう言っているかも知れない。

「助けてくれ」

 その蝉の哀れな繁殖の営みを、

近所のこどもたちは虫取り網でつかまえたりする。

蝉だって年端もゆかない少年たちにつかまるのは理不尽、

納得がゆかない。

「おれの七年間は、おまえに捕まるためではないんだ。放せ」

 と、腹を動かしながら必至に抵抗するのだが、

世の罪のないこどもたちは指につままれた罪のない

弱者をこともなげに虫取りかごに納めてしまうのである。

 だが、この蝉の一生をおもうとき、

蝉が幼虫から成虫にかわったその瞬間を

蝉の誕生とおもっているのは、

じつはニンゲンだけである。

ニンゲンが成虫と名付けたからわれわれは

勝手にあの姿を蝉とおもいこんで、

ときには安心しながら、

理解しているだけである。

ほんとは、蝉の一生は土中にあって、

それが蝉のほとんどの生である、

とおもったほうが自然ではないか。

蝉が抜け殻を捨てて飛び回ったあの姿は、

成虫ではなく、じつは死に化粧なのだ、

という理解が正しいんじゃないか。

 ニンゲンには、勝手に言葉を使って、

モノを規定するというエゴイズムがあるが、

言葉をいちど手放してみて、

もういちどものの命に触れてみると、

また、ちがったものの見方ができるというものだ。

 

 ところで、観音信仰では、

理想郷(フダラクセンと言う)をもとめ、

えんえん南に針路をとって船出するのだが、

あれは、けっきょくは体のいい自殺なのだ。

その部分だけは蝉といっしょなのである。