以前、すこしレベルの低い
高校に勤めていたことがあった。
ほんとに吃驚するくらいなのだ。
休み時間には男子生徒と女子生徒が
抱き合っていたり、キスしたり、
始業ベルがなっても抱き合っているから、
ほら、教室にもどれ、となんども
わたしが怒鳴ったら、
「うるせぇ、耳が腐るわ」と言われた。
おまえが腐っているのは耳だけじゃ
ないだろ、と言いたかったが、
さすがに控えた。
そんな学校だったから、
教員もそれにふさわしく、
「あの、二人、担任から強く言っておいてくださいね」
と、体育の女教員に言うと、
「だいじょうぶです、あの二人は別れましたから」
と言う。そして、まわりの教員たちは
大笑いしている。
頭、抱えるね。
で、そんな空間だから、
よく生徒から聞かされた言葉が
「常識だよ」だった。
お前ら、常識がないからここに来たんだろ、
とは言わなかったが、
わたしが気づいたことは、
程度のひくいやつほど「常識」という語を
つかうものなのだ、ということだ。
「常識」ってなんだろう、
長い歴史の中で培ったロールモデルなのだろうか。
しかし、「今日の常識は明日の非常識」なんて
ことばもあるから、「常識」というカテゴリーは
ひどくあいまいなものではないか。
ひょっとすると「常識」という語は
「バカ」が日常使う、バかなりの言語武装の
装置なのかもしれない。
ようするに「常識」という語にたよって
じぶんでは、その対象にみずから能動的に
かかわっていないということと類比的ではないか。
つまり「常識」というのは脳の機能停止を意味するかもしれない。
じぶんで考えなくても済むからだ。
いま、学生がなぜ、大学に行くのかを
当の本人に聞くと、おおよそは、いい企業に行くため、
と答える。つまり大学はプレスクールであって、
そこでなにかを学ぼうとするより、
その先の就職を考えているのである。
その就職の先の考量は、たくさんの給料をもらえることなのだ。
ようするに、いまの子どもは、
すでに、小学校から就職までの
一本道をいい生活をするためのメソッドと考えてるいるのだ。
いい生活は、たくさんのお金、とおもっている。
価値観の一元の極北の考えといってもよい。
つまり、人びとの幸福論は、裕福な生活をするために、
企業をえらび、よい大学をえらび、そのためには、
よい高校をえらび、そのためによい中学に進学することを
ねがっている。
すべての幸福論の価値観が逆算なのである。
その幸福論は、その親御さんにも妥当する。
逆算の幸福論、これこそがいまの常識であり、
それこそ、脳の機能停止といってもよい。
もちろん、このレールに乗って、
それでしあわせならそれでよい。
いや、もっともよいことかもしれない。
しかし、わたしが言いたいことは、
「常識」という語にまどわされると、
ほんとうの「ホンモノ」にであえなくなるかもしれない、
ということである。
この間、カツカレーを注文した。
と、もちろん、カツカレーは出されたが、
いっしょにスプーンが出てきた。
あたりまえか。
いや、わたしは、カレーライスは
フォークを使っている。
スプーンでカレーライスを食べるのは
なにか下品な気がするからである。
カレーにスプーン、常識だろうか。
じゃ、とんかつにソースをかけるのは?
わたしは、塩でたべる。あるいはポン酢。
とんかつにソースをかけると、
せっかくの油の質がわからなくなる。
とんかつにソースをかける、
もちろん、とんかつソースなるものもあることは
知悉しているが、
あれは、とんかつ業界が悪い油をつかっていても
ソースでごまかくことができるわけで、
業界全体の陰謀じゃないかと、わたしはおもう。
鍋にポン酢もうまい、とおもったことがない。
刺身に醤油いがいもあるかもしれない。
たとえば、カツオとマヨネーズとか。
みな、当たり前とおもっていること、
その「常識」という壁をひとりで乗り越えたとき、
そのひとの発見や、「ほんとうのこと」がうかんでくるかも
しれないのだ。
刈谷剛彦というひとが
「比較的低い階層出身の日本の生徒たちは、
学校での成績を否定し、将来よりも
現在に向かうことで、自己の有能感を高め、
自己を肯定する術を身につけている」
と語るが、けっきょく自己の有能感を
支えてるのが「それが常識よ」という思量なのだろう。
つまり、「常識」のなかにも「ホンモノ」はあるかもしれないが、
ひょっとすると「常識」の外にしか
「ホンモノ」がないかもしれないのだ。
あの二年間務めた、あの学生たちは、
はたして大人になってしあわせをつかめるのだろうか。
ま、そのときも「常識さ」とかいって
じぶんを支えてるのかもしれない。