こんどNHKの「短歌」という番組に
ほんのちょっと出られるようなので、
もういちど、かんたんに短歌とはなにか、
ということをわたしなりに申し上げたいと
おもいます。
短歌とはことばですから、
ことばとは語ったものと同等の語らないものを
ふくむという根本的な事情があります。
「おれ、頭、悪いからよ」という発言には
「おれ、頭悪いと判断できるくらいの知性は
あるんだよ」と語っているわけで、
また、「あの子きれいだよね」という語には
「世の中にはブスがいる」と言っているのです。
「おじぃちゃん元気で長生きしてね」
というやさしい孫のことばにも
「おじぃちゃんは元気で長生きできない
生き物だ」ということを語っているのですね。
つまり、「過不足なく語ることができない」のが
ことばの本質なのです。これをジャック・ラカンというひとは、
「根源的疎外」とよびました。
ソシュールという言語学者は
この本質を、語を「記号表現」と「記号内容」とに
わけて説明しました。
「ゾウ」という「記号表現」から、
鼻が長くて耳がおおきくて、何トンもある
巨大な生き物をわれわれは難なく想像できます。
その創造領域を「記号内容」と呼んだのです。
この「記号内容」を言語学では「含意(コノタシオン)」と
いいます。
じつは、このどうにもならないことばの
あいまい性を、むしろ、過分なく発揮させてきたのが、
俳句であり、短歌でありました。
たった17文字、あるいは31文字では
すべてを語れるわけがないのです。
もともと、どんなに語ったとしても
語り足りないか、語りすぎるか、しかないのですから。
ようするに、
語れなかった領域はむしろ読み手にゆだねる、
という手法を、結果的ですけれども、選択したのです。
つまり、短歌とは、ことばの送り物なのです。
開ける楽しみは読者にゆだねるのです。
「はい、今日は君の誕生日、
これ、君のほしがっていた黄色の帽子が
はいっているからあけてごらん」
って渡したら、もらった当人、「あ、ほんとだ」
しかなくなるでしょう。
開ける楽しみも、発見の楽しみもなくなります。
映画を紹介するときに、
「あの映画ね、ラストシーンがこうなって、
ああなって」って最後まで説明して、
ひとに紹介したら、紹介されたひとは、
あ、ほんとだ、でおもしろくもなんともない。
だから、短歌は、語れなかった部分は
読者におねがいするのです、想像してくださいねって。
そのときのコツは、作品に空気感をもたせることです。
「匂い」といってもいい。
雪の絵を描いたら日本一といわれた
樋口洋さんという方がいらっしゃいました。
さいきん亡くなられたのでひどく残念なのですが、
わたしにおっしゃったことは
「絵画とは空気を描くんです」と。
文芸、芸術というものは、
根本でつながっているんですね。
短歌も、31文字のなかに、
なにかしらの空気を感じてもらう文芸なのです。
・ガラス窓にごつんと額をあてているひとが泣くとはこういうことだ
空気、感じてもらえるでしょうか。
語らなかった含意にどれだけの
空気感がかもせるか、という事情が
短歌の「出来」につながるわけです。
池坊さんの活け花をおもえばよくわかります。
池坊さんの作品は、やはりどれだけ
活けられてない領域を感じ取るかに
かかっているのではないでしょうか。
ブリューゲル公の花瓶の花が
ヨーロッパでは有名ですが、
キャンバス一面にもりだくさんの花が
飾られています。
すべてを見せてしまっている、と
言ってもよいかもしれません。
わたしどもは、そういう風情を
好みません。
われわれは、表現されていない空気を
味わうことがもっとも風流だとおもっているのです。
そういう考量の地続きに「通」という概念が
あるのだとおもいます。
だから、わたしは、わたしのお弟子筋には
「いかに語るかではなく、
いかに語らないか」ということを申しております。
語らない領域を読者が想像し、
その空気感を、表現者と読者とで共有する、
そういうコミュニケートが
短歌の魅力のひとつだとおもっています。
しかし、じぶんの顔がテレビに出るのは
どうも、申し訳ない気がしているのは事実です。