ある宗教学者が、欧米のキリスト教は「日曜日の宗教」、
日本の神道は「毎日の宗教」という意味のことを語ったことがある。
「毎日の宗教」という概念には、
とうぜんアニミズムが底流しているという
事情は語るまでもないだろう。
つまり「隣のトトロ」なんかにあれほど
夢中になる国民であり、
また、ディズニーランドの
イッツ・ア・スモール・ワールドの
水の中にコインを抛り込む国民でもある、
ということである。不思議ですね、
水を見るとお賽銭みたいに金を入れるのって。
ところで、日本最古の歌学書は
奈良時代の藤原浜成の『歌経標式』と言われているが、
歌論となると、たぶん、紀貫之の『古今集仮名序』
ではないかとおもう。九〇五年の成立。
やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。
ではじまるあの有名なやつだ。
「生きとし生けるもの」という常套句の初出でもある。
あの序文には、じつは世界の学者にとっては
理解のつかないくだりがあるというのである。
それがここ。
力を入れずして天地を動かし、
目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女の中をも和らげ、
猛き武士(もののふ)の心をも慰むるは歌なり。
「日曜日の宗教」たる欧米の神は、
届かざる遥かかなたの存在であり、
神にちかづくのがもっとも美に近いとされた時代もあった。
ミロのビーナスなどはその時代の産物である。
ところが、紀貫之にしてみれば、
神とは、じぶんの歌で感動するものであり、
「毎日の宗教」としてひどく身近に、
いたるところに神々は存在しており、
手をさしのべれば、
人間の目線の位置にましましているのである。
まるで友達感覚じゃないか。
つまり、視座のベクトルで言えば、
キリスト教の神は空高く、
はるか天空に向けられているのに対し、
日本の神は、人間の視線の位置にぐるっと見渡せ、
かつ、地面とパラレルな方向性に位置づけられている。
このへんの事情が、
どうも欧米人にはご理解いただけないようである。
だから、神社にある大木は御神体として
しめ縄がはりめぐらされているけれど、
近代合理主義を経験してきた欧米人には
〈太い木〉としか理解されないのも頷ける。
自然破壊の原点である。
日本人にたいする自然への
付き合い方は、科学至上主義の反省とともに、
京都議定書などを経緯しながら、
徐々にその正統生がグローバルに認知されはじめたといってもよい。
ただし、男女の仲は、欧米の文学でも和らげることはできるが。
二伸
「宗教」という語は、明治時代から使われた語なので
貫之の時代にはとうぜん宗教という概念はなかった。