英吾は1500語あれば日常に支障はないそうだ。
フランス語は4000語と言われている。
こと、日本語はなんと3万語ないと
日常、困るらしい。
そりゃそうだ。「雨」という熟語だけでも
800語ちかくあるからだ。
それは、日本が自然と共有して生きてきたという
歴史にもよるが、それだけではない。
平気で外来語や外来文化を取り入れ、平気で
それを和語化、和風にした歴史をもつからだ。
なんでも日本風にしてしまうことを
「プラグマティズム」実用主義とよぶが、
日本初の哲学者、西周は無数の外来語を
造語した。
「哲学」「真理」「理性」「科学」「芸術」
「知識」「定義」「概念」「命題」
「心理」「物理」「消費」「取引」
「帰納法」「演繹法」「権利」など
すべて西周である。
そして、日本のプラグマティズムは
そういう語彙を、すなおに受け入れ、
さも、むかしからありましたよって感じで
日常に流布させるのだ。
だから、語彙数が3万語に
はねあがるわけだ。
こういう、よくわからないけれど
きっあるはずだといって使用できる脳の
はたらきを「脳化」とよぶ。
その「脳化」された言語をもちいるひとを
「社会的身体」ともよぶ。養老孟子の言説である。
だから、ほんとは「概念」とか「芸術」とか
身体にしみていない、骨肉化していないものだから、
完全な理解ではないはずなのだ。
われわれが、完全に理解できることばは、
大和言葉だけなのである。
「おいしい」とか「うれしい」とか
「美しい」すべて、大和言葉である。
漢字でいえば、訓読みがそれにあたる。
訓読みというのは、中国からつたわった漢字に
大和言葉をあてはめたものなので、
訓読みがあれば、たとえば「美」なら「うつくしい」と
同義だということで、それが大和言葉の証左となる。
では、訓読みがない語はなにか、
といえば「愛」「番」「絵」である。
この三語には訓読みがない。
ということは古来から「愛」も「番」も「絵」も
発想がなかったのである。大和言葉にあてはまる「概念」が
なかったといってもよい。
だから、日本人はひとを愛せないのである。
「愛」という概念のDNAがなかったのだから。
しかし、よく程度のひくいやつらが
「愛している」「愛している」と連呼するが、
それは、わが国の本来の感情ではないのだ。
なのに、歌人でも、無頓着に「愛している」とか
つかっているひとがいるが、どうも
言語能力にかけているというしかない。
むかし、N子さん(仮名)の歌評会に出席したことがあったが、
ずいぶん「愛」ということばをつかっていた。
二次会には、栗木京子さんや加藤治郎さんも
いたけれど、そこでマイクがわたしに回ってきたので、
酒のいきおいもあって、
「愛という語がひんぱんに書かれていますが、
日本には愛という概念はないので・・・」と
口角泡をとばして語っていたら、
むこうから、黒瀬さんという歌人が走り寄ってきて、
「まあ、まあ」と、わたしのあいさつを遮って
しまったのだ。
わたしは、悪いことを言ったのであろうか。