渋谷のスクランブル交差点を
はじめて見た西欧のひとが
まずびっくりするのは、
あんな大勢のひとが、だれひとり
ぶつかることなく、すり抜けてゆくことだという。
わたしどもには、至極当然のことだが
どうも、異国のひとからは不思議な光景らしい。
じっさい、東北からはじめて上京したひとが
あの猥雑な往来をみて、「今日はなんのお祭りですか」と
となりのひとに聞いたという話もあるが、
それは、また別のはなしである。
西欧、いや欧米といってほうがよいかもしれないが、
かれらからすると、スクランブル交差点の
すり抜けは、「意志のよわさ」に通ずるらしい。
ひとを気にしながら、じぶんを曲げて
歩いているということだ。
なにしろ、欧米人はミーズムだから、
「わが道をゆく」ということなので、
まっすぐ突き進むから、ドカドカと
肩をぶつけて歩くらしい。
われわれからすれば、
他人を無意識的に気遣って
するするとぶつからずに歩くことが
ごく当たり前の行為であり、
無意識の気遣いこそ「意志」そのものだと
おもっているにちがいない。
すこしずれるかもしれないが、
「譲歩」といってもよいだろう。
じつは、日本人は「譲歩」が得意なのだ。
「まあ、まあ、ここはそういうことで」なんて
よくわからない譲歩がまかりとおっている。
「まあ、まあ」がよいかどうかは
べつとして、これが日本だ、わたしの国だ、
という感じである。
だから、わが国では、
論文などでも、譲歩・逆接の構造が多い。
「もちろん・・・だが、しかし・・・」
という文構造である。
この「もちろん」の次には、譲歩内容、
それは自説とは真逆の、みずからの「反論」や
「一般論」をまず書いておいて「しかし」で
自説を述べるという手法である。
これを欧米人は「弱さ」と見るらしい。
なんで、自説を突っ走らないのか、と。
ミーズムだからしかたない。
つまり、青い目にとっては「ウィーク」なのだ。
しかし、この譲歩逆説構造は、
思考の柔軟性、視野の広さをあらわす最適な
テクニックだと、わたしどもは了解している。
つまり、いついかなるときも
「他者」をかんがえながら行動しているのだ。
だからひとを納得させるのにも
「譲歩逆説」が有効である。
「うん、わかった、たしかに君のいうことはわかる、
でもな・・・」
これである。
夫婦喧嘩はなかなかこれができない。
夫婦喧嘩はパラレルがおおい。
「な、もうすこし部屋をきれいにしたら
どうなんだ」
「なによ、だから、あんたには友達がいないのよ」
まったくの平行線である。
こうなると、ウクライナのように収まりがつかなくなる。
他者を慮りながら行動する、
という考量は、じつは自我構造に由来する。
我が国の自我構造、アイデンティティなるものは
「他者からみたじぶん」という構造である。
他人からわたしはどう見えているのか、
それが「じぶん」を支えているのである。
たとえば、小学校の40歳くらいの先生を例にとれば、
教室では、じぶんを「先生は」といい、
職員室では「わたしは」といい、
家に帰ってこどものまえでは「お父さんはね」といい、
妻の前では「おれは」と、
弟の前では「兄さんはさ」という。
他者との関係でじぶんの姿が
何重にも変わるのだ。
これを相対的自我とよぶ。
青い目は、いついかなるときも
アイ・マイ・ミーだから変わらない。
つまり、絶対的自我である。
この差は、管見ではあるが、
民族の成り立ちから、つまり
農耕民族性と狩猟民族性との相違に
あるのではないか。
農耕民族は、みんなといっしょの行動を
とるのが通常なので、他者との距離を
どこかでいつも自然に気にしている。
狩猟民族は、他者は敵だから、
まず、じぶんの意見を述べたり
じぶんの道は曲げたりせずに進む。
だから、渋谷スクランブル交差点の
芸術的すり抜けの現場というのは、
農耕民族のショーなのである。
しかし、わたしは
あの喧騒が苦手なのでまず
渋谷にはいかないけれども。