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心なき身

 

・心なき身にもあはれは知られけり

鴫立つ沢の秋の夕暮れ     西行法師

 

『新古今和歌集』(秋上・三六一)のおなじみの一首。

この歌の前後に、寂蓮・定家の歌が並び配され、

結句がおなじく「秋の夕暮」ということから

文学史ではこの三首を「三夕の歌」と称している。

 

「心なき身」とは、小学館「古典文学全集」の頭注に

「もののあわれを感じる心のない出家の身」とあり、

頭注はさらに「出家した人間は、

世間の俗人の煩悩を超越した悲哀愛憎の

心を動かさないから、

もののあわれなどにかかわらないものだ、

という一般の通念にもとづいていっている」と続ける。

じつは、この「一般通念」というくだりが急所なのだ。

 

 つまり「心なき身」の「身」は

「一般通念」であって「己の身」ではない、ということである。

「内面」は明治期にうまれた。

国木田独歩の発明らしい。

あるいは、「個性」も、ついでに「社会」も、

明治時代の訳語である。もちろん「自我」「自己同一性」

「アイデンティティ」という概念も、

明治より前のひとびとは所有しなかった。

やっとこさ、近代になって確立してきたものなのだ。

 

 だから、井原西鶴の『日本永代蔵』に登

場する金持ち(「分限」という)が

「じぶんらしくありたいから商いをやめる」なんて、

微塵も思っていなかったし、そんな台詞もあるわけない。

 

 平安から鎌倉という西行の生きた時代にあって、

とうぜん西行に、アイデンティティを貫徹すべき

発想はなく、また、それにともなう身体運用もない。

だから「心なき身」に、本人の「個」たる立場は

見当たらず、そこにあるのは、

仏教的教義としての要請であり、

出家僧の「世の中的立場」

(「社会」という語彙もないから「社会的立場」ではない)

としての発露であった。

これが小学館の頭注の「一般通念」の中身である。

世の中に順応する「わが身」こそ、歌人の真骨頂なのであつた。

 

 ちなみに、アイデンティティという

概念を簡潔に言うと、

「他者から見たじぶんの意識」である。

ある小学校の教師を例にとれば、

学校ではじぶんを「先生」といい、

校長の前では「わたし」といい、

帰宅すれば「おれ」といったり、

子どものまえでは「おとうさん」といったりする。

つまり、他者による相対的な「我」をもつ

図式がアイデンティティの概念を担保する。

いまでは、わが身を纏うコスチュームも他者として、

アイデンティティを担保するひとつと考えられている。

たとえば、警察官が警官の制服を着たときに

官人を意識すれば、これが自己同一性というものである。

 

 古典を読むばあい、

現代用語にあてはめて考えると誤謬をおかすこともある。

「鴫立つ」だって、一般には、鴫が飛び立っている、

と解釈されているが、わたしは、

鴫が静謐な沢にじっと立っている、

と解釈している。ま、これはまったくの余談だが。