マックス・ウェーバーから十数年あとに
ハイデガーが登場します。
ハイデガーは、ナチス翼賛からの反省から
すこし方向性をかえて、
技術論を展開します。
技術、つまり負担免除です。
どれだけ世の中、快適に過ごせるか、
ということですね。
われわれは道具や物を発達させ便利な世の中をつくってゆき、
それによって人間がおもいどおりに道具を
使いこなせるとおもっているかもしれないけれど、
じつは、むかしは木こりはみずからのために
木を伐採すればよかったのですが、
近現代は、木こりは木材業者のために伐採します。
木材業者はパルプ業者のため。
パルプ業者は出版社のためと、
すべてはつぎの仕事場のために仕事をせざるを得なくなります。
これをハイデガーは「ゲシュテル」と呼びました。
これはマックス・ウェーバーも
言及していたことなのですが、
それをゲシュテル、いわゆる「駆り立て」と命名したのは
やはりハイデガーです。「駆り立て」、ゲシュテルの連鎖とは、
人間が技術の主体ではなく、
主体なのは技術の体系であると論破したのです。
やはり、人間は副次的要素となってしまいました。
ここにウェーバーとハイデガーの
ふたりの言説をふまえれば、
人間の閉塞感の源があるのではないかとおもうのです。
人間がシステムの奴隷になり、
じぶんのためでなく仕事をする、
そこに充足的生活があるでしょうか。
仕事、十八世紀のヘーゲルの時代は、
まだいまほど資本主義が強大ではなかったわけで、
仕事するということは自己実現のひとつとして
称揚されていたのです(これを「外化」と呼びます)が、
ところが二十世紀のウェーバーやハイデガーの時代になると、
自己疎外になってしまったのです。