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閉塞 その3

 では、高度資本主義が

けっきょく生み出したものはなんだったのでしょうか。

二十一世紀にまでたどり着いてみますと、

すべては座席取りの世の中になったのではないでしょうか。

ポジション取りですね。

 

 だって、わたしたちが高校にあがるときの

進路相談をおもえばかんたんにわかるでしょう。

内申点と偏差値で、ヒエラルキーのように

段階別に高校を挙げられて、ここならはいれる、

ここは無理かもしれない、

とポジションだけの指導ではなかったのでは。

ここの教育目標がきみにあっているから、

この学校がいいのでは、

という指導を受けましたか。

すべては小刻みな段階別の進路指導であり、

きみの個性とか嗜好とかはおかまいなしだったはずです。

 

 じゃ、なぜ大学に行きたいのか、

それはいい生活をするため。

いい会社に入るため。

たくさんお金が取れるから。

そこにはあなたのやりたいことが含まれていますか。

いや、目標をもったひともいるでしょう。

おおいに結構、その道に進んでください。

大人だって、会社に入ったら、課長になりたい、

部長になりたい、

と、ただ座席取りだけの人生かもしれないのです。

じぶんの好きな仕事ではないかもしれないのです。

 

カントのはなしは第三章「近代合理主義」の項で

もうしましたが、カントが提唱したのが、

みずからすすんでするのが「定言命法」なら、

「・・のためにする」という、

はんぶんいやいやながらするのが「仮言命法」でした。

仕事も仮言命法的にすればおのず

飽きがきてもおかしくないのです。

高度資本主義の産み落としたものは、

ひょっとするとそんなものだったかもしれないのです。

 

 そして、みなさんのご両親も、

じぶんの子にはいい生活を、

そのためにはいい就職を、

そのためにはいい大学をと、

すべては将来にあるだろう「快適な暮らし」から

逆算していまのことをかんがえているかもしれません。

明日はきっとそうなっているだろう、

と、まだ先の未来のことをかんがえながら

現在に逆流する考量を「前未来形」の時制といいますが、

その奥には、もしかすると個としてのかんがえではなく、

周りのひとが、あるいは、社会のひとがそうであるから、

うちの子もその路線に乗せるのだ、

というおもいが底流しているかもしれません。

おそらくそうでしょう。しかし、

わたしは、それが悪いことだとはもうしません。

ほとんどの家庭がそうおもっているし、

それで幸せが訪れればなんのもんだいもないからです