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道長の陰謀

・この世をばわが世とぞおもふ望月の

かけたることも無しと思へば

 

 藤原道長のこの有名な歌が詠まれたのは、

娘、彰子が一条天皇との間に皇子を産み、

天下を外戚の祖父として、

そのヒエラルヒーの頂点に登ったときであった。

 

 道長が、一条天皇を介して政治の頂点に立つのは、

西暦九九六年以降のこと。前年の九九五年、

長兄の藤原道隆が逝去したところからはじまる。

中の関白道隆は、娘の中宮定子と一条天皇の夫婦関係を基盤に、

息子の伊周・家隆を側近に据え、

権勢をほしいままにしいていた。

世に「中の関白家」とよばれる。

中の関白家の全盛は九九五年の道隆逝去までの五年間である。

秋山虔氏は、この五年間の中の関白家を

「野放図」と呼んでおられたが、

たしかにあけすけな人間関係シェーマが

「枕草子」などからくみとれる。

 中の関白時代、道長は不遇の時をおくる。

道隆の弟であるにもかかわらず、

身分は伊周より低位に据えられ、

そのうえ道隆は、次期関白を、

伊周に譲渡する気さえあったらしい。

この動きにすばやく反応したのが次兄の道兼である。

父の藤原兼家を関白に、甥の一条を天皇に

据えた立役者である。道兼は道隆の死後、

すぐさま朝廷におもむき、次代関白を伊周でなく、

このじぶんにすることを申し出たのである。

 

 もともと、一条帝と伊周とは、

定子を介して親密な仲であり、

帝としても伊周の関白職は居心地の

よい人事であったにちがいないが、

道兼の進言に耳をかたむけないわけにはゆかなく、

やむなく一条帝は、道兼関白の勅命をくだす。

が、そのわずか一週間後、道兼病死。世に七日関白とよばれている。

 

 そして道隆逝去の翌年の九九六年、

伊周の家来が、花山院に弓矢を放つという

暗殺計画(未遂)が露呈する。

これは、すべて道長の策略であった。

道長が、伊周の女性を花山院がうばったという

うわさを流したのだ。よって伊周は播磨に、

弟の家隆は但馬に左遷。定子も出家を迫られ、

実質上、政界での中の関白家は無力のものとなる。

道長の台頭計画はこのように道隆の死を待って実行されたのだ。

 それから三年後、いよいよ道長の娘、

彰子が入内。三年のあいだ、入内を待ったのは、

それでも彰子はまだ十二歳。

いまなら縦笛を吹きながら下校する小学校六年生だ。

 

 ようするに、西暦九九九は、

ふたりの中宮を天皇がもつという歴史でもまれな事態となる。

しかし、ここが問題だ。翌年、定子が急逝するのである。

二七歳。難産のためらしい。が、わたしは、

どうしても、定子の死に、

道長が関わっていたのではないか、

と、宮部みゆきのような推理をしてしまうのだ。

この場でもっともじゃまな存在は定子だからである。

ここに、立身のためなら細心の注意を

はらいつつ冷酷にことを実行する道長、

というシルエットをわたしはぬぐいさることができない。

 

 人口にカイシャしたこの歌の裏には、

このような道長の深奥なる陰謀が付着している。

ただ、わたしは、道兼の死にも道長が関与していたのではないか、

そうおもっている。

まてよ、ひょっとすると道隆の死にも・・・。

 

くわばら、くわばら。