Menu

お得なアプリでクーポンGet!

店舗案内

俳句と短歌って

わたしは俳句については門外漢である。

ただ、世界一短い国語であり、

・荒海や佐渡に横たふ天の川

 

こう詠まれるや、そのスケールの大きさ、

宇宙観は短歌にはない世界、空気のような気がする。

 

 もともと俳句は、俳諧連歌の発句から、

正岡子規が命名した語である。

 

 俳諧連歌の発句、つまり

575の挨拶であったのが俳句のはじまりである。

 

 だから、松尾芭蕉や与謝蕪村が

俳句という語をつかったことは

いちどもない。

 

 では、短歌と俳句はどうちがうのか、

という質問をうけて、はたと困ってしまった。

 

 あまり考えてもないことだったからである。

 

 ただ、俳句のほうが理がたっているような

気がしているが、それもエビデンスがない。

 ある人に言わせれば、短歌は女性的、

俳句は男性的ではないかと。

 

 しかし、いまのご時世、男らしくとか

女らしくはご法度などで、その区別もままならぬ。

 

 じっさい、俳句は、その短詩型ゆえに制約もおおく、

季語なるものが存する。季語とは、けっきょく

万人共通語であり、共通語ゆえに

イメージが拡散するだろう作品に

ある程度、イメージの拡散を防ぐ装置として

機能している。

 

 また、「荒海や」の「や」という切れ字、

これは格助詞とちがって、「荒海」というイメージと

「佐渡に横たふ天の川」というイメージを

論理性なしにつなげる、すこぶる便利な語である。

 

 格助詞には「海」「行く」のあいだに立って、

「に」とか「へ」とか、しっかりとした論理のうえに

立つ語であるところから、切れ字「や・かな・けり・なり」などが

まったくちがったはたらきを見せていることは

容易に察しがつくはずだ。

 

 だから、切れ字はイメージの広がりにすこぶる

有効な働きをみせているのである。

 

 ということは、季語でイメージを抑え、

切れ字でイメージを広げるという

真逆の装置が十七文字のなかに存在しているのである。

 

 ということを、質問された方に答えたら、

「ううん、そんな文法的なこと聞いていないの」

と、一言。

 

 さて、短歌と俳句のちがいとはなんぞや。

 

 私見ではあるが、抒情性という側面からすれば、

おのず短歌のほうがむいているのではないか。

 

 短歌にはひとの機微というものを語るに

ひじょうに有効な手段ではあるが、

俳句は、そのへんの事情が弱いのではないだろうか。

 

・たらちねはかかれとてしもむばたまの

我が黒髪をなでずやありけむ

 

 母は出家しろとおもってわたしの

黒髪を撫でたりしなかったのであろか。

 

 というような僧正遍照の和歌である。

 

・家にあれば笥に盛る飯を

草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 

 家にいると器にもった飯を旅の途中ゆえに椎の葉に

盛っていることだ。

 

 という有間皇子の歌は、これから処刑される

皇子の心痛がよくわかる作品である。

 

 こういう心情を語るのにはやはり短歌だろうとおもう。

 

・時計屋の時計春の宵どれがほんと

 

 久保田万太郎の句である。

時計屋にかかっている柱時計はみなすこしずつ

ずれていて、まちまちな時間に時をつげている、

どれがほんとうの時間なのか。

 

 こういう切り取り方が俳句らしい。

 

・鰯雲ひとに告ぐべきことならず

 

 人間探求派の加藤楸邨の名句である。

やはり、抒情性、リリカルさとはすこしちがう気がする。

 

 抒情性とは、作品の裏側に底流する

語らなかった部分、つまり含意の領域に発生する。

その領域、空気感がひとの心の奥底にとどいて

広がっているのが短歌であり、

その空気感が宇宙にひろがるのが俳句である、と

言っていいものだろうか、よくわからないので

けっきょく、解決できない難問、アポリアとして

このはなしはおわるのである。